ある子の姿を見た。
普段から分からない、分からないと言っている子。
いつも支援員に頼る。
分からないと、ふらふらする。
『学び合い』をしていると、子供の素の姿が見える。
その子結局、学習に関して、友達に「一緒にやろう」「これでいい?」「分からないから教えて」という言葉をこれまで使った経験が非常に少ないんではないだろうかと思った。
授業終了後、「セリフ」として受け答えの練習をした。
しどろもどろに。照れくさそうに。
その子の過去にどんなことがあり、家庭でどんな指導を受け、どんな授業の経験があったかは知らない。でも、「困ったときに、途方に暮れてふらふらする」というカードしか知らなければ、そのカードを切るしかなく、切ったことで助けられればそのカードを使う頻度が上がるだけだ。
「こういうとき、どういえばいいのか分からない、言ったことない」
そうしたセリフを毎日練習できる機会が、
通常の一斉講義型の授業の中にありますか?という話。
人を助けを求める、助けを求めている人に声をかける。
そうした経験の場をたくさんたくさん経させることに意味があると感じる。
教える人主体の「教え合い」は自己中心的に一方的に「教え」てしまいがち。
相手の気持ちを考えるのでなく、教えて優越感を得る、そんな危険もある。
これだけ教えているのになんでわからないんだ!って。
『学び合い』は学ぶ人が主体ということを場の管理者が理解していないと、
学びの主体は自分だという気付きが生まれてこない。
学ぶための練習になってこない。
学校は人間関係を学ぶ場に最適。
嫌いな子ともうまくやる、異性に声をかける、友達を遊びに誘う、家に誘う誘われる、など、みんな、経験。
自由に話しかけられる機会がない学校では、長い行間休みだけが誘う誘われるチャンス。
でもその場合、一度失敗したら次のチャレンジは相当ハードルが高くなる。
毎日ある授業の中でそうした自由に話しかける機会を設けることができれば、
何度も繰り返し人とのかかわり方にチャレンジして自ら試していける、
そうした機会の提供のほうが、よっぽど大事。
だから子供が自由に学び合える『学び合い』の時間を確保したい、と思います。
もう、相互に遊びに出かけたり、電話で遊びに誘ったり、互いの家を行き来したりが自由にできる時代ではない。
人が人に話しかける、ということ自体の練習を、学校でせずにどこでするというのだろう?。